視福協だより

巻頭言 「人の赦し」と「神の赦し」

石田 透

 新しく実行委員になった石田透と申します。日本キリスト教会連合 東村山キリスト教会の教会員で全盲です。
 今感じていることを少し書かせていただきます。
 ある小説の中の話です。一人の少年の父親が飲酒運転で交通事故を起こし、相手は死んでしまいました。家族は何度も父親に注意し続けていたのですが、父親はそれを守らなかったのです。少年はとても悪いと思い、赦しを求めて相手の家族のところに行きます。でも相手の家族はとても彼を赦す気になれません。むしろ顔も見たくないといって追い返します。それでも少年は何とかして赦してもらいたいと思って何日も通います。
 小説はこの後、この少年がいろいろなことを通して変わっていく様子が描かれます。
 私がここで考えさせられたのは「赦し」とは何かということです。ただ悪いと思って(そのことを改めても)赦しを請うだけでは赦されたことにはなりません。相手にとっては「赦しの暴力」であることさえあるのです。赦されたいという思いはある意味自己満足になってしまうこともあるのだと。
 私たちも人を赦すことができないことがあります。タラントのたとえで1万タラントの負債を負っている人が赦されたのに、100デナリの負債を赦すことができないのです。(マタイ18:21~35)
 人の赦しは、やはり自己満足の面があるのだと思わされます。
 イエス様は私たちの罪のために十字架につかれました。そしてそれによって私たちは完全に赦されました。そしてそれによって私たちに平安が与えられているのです。
 やはり赦しは神の一方的な愛によってこそ与えられるものであることを感謝させられました。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」(1ヨハネ4:9)